2009.06.12
美形林冲への驚きが段々と冷めてきたところで、ふと。
ある想念が頭を過りました。
これ、作者的に楊ポジションのつもりだったらどうしよう……。
いえ別に楊のことはどうでもいいんですが、しかし師叔は…!!
太公望師叔はあんなに不快なキャラじゃないもん!!(>_<)
ある想念が頭を過りました。
これ、作者的に楊ポジションのつもりだったらどうしよう……。
いえ別に楊のことはどうでもいいんですが、しかし師叔は…!!
太公望師叔はあんなに不快なキャラじゃないもん!!(>_<)
いや戴宗が劣化太公望と言いたい訳では全然なく、あれはあれでキャラが立ってるし天野(洋)が頑張って考えたキャラなんだし第一師叔に全然似てないし!……要は受け取り手の好みの問題なんですが。
絵柄のデザインが似てるというだけで、ついキャラまで比べるような発想をしてしまった自分自身に腹が立つのです。
悪魔よ去れ!みたいな……。
何年経っても信者は信者でしかないようで、ちょっとつつかれるとすぐに爆発します(-_-;)今回のは完全に自爆ですが!
師叔の悪口を述べてみよと言われても、全く思いつかない自分に少し吃驚です……が、でも本当に短所ってないですよね?('∀')
師叔がグータラだったり卑怯だったりするのはあの人の欠点ではなく、そうあろうとして半ば演じてるところがあるので。
太公望師叔はキャラ造形としては銀英伝のヤン・ウェンリーの亜種ですが、しかしヤンの私生活がだらしないのは地ですし、飲酒はストレス解消の為のあまり良くないお酒ですからねぇ。ヤンの人間臭さは魅力であると同時に弱味でもありますが、師叔の言動はそれとは違う。
と言っても、師叔がわざと自分を侮らせる為に気持ち悪いペンギンの着ぐるみを身に纏ったり倉庫のモモを盗んだり何かと人質を取ったりギャンブルで大負けしたりイワシ占いしたりしてるのだとしても、師叔の親しみやすさを否定する材料にはなりません。
あの人は常に皆と同じ位置に立とうとしていて、時にやや目下に見られようとすらする。皆は韜晦に韜晦を重ねる師叔の真意を完全には理解出来なくとも、師叔が自分達を愛していることは理解していて、そんな師叔を彼らも愛する。
フジリュー太公望は徹底的に利他の人ですが、しかしその原動力…動機になっているのは、滅ぼされた一族に対する深い愛という、ごく個人的な感情です。そこがとても好き。
呂望→太公望という過程を見れば師叔が人を愛する理由はよく解りますが、王奕→王天君という過程からは、そもそも伏羲という存在が誰かに愛されたいと願い続けていたのだ、ということも薄ら読み取れます。家族に愛された経験が呂望少年に強烈な印象を植え付けたのも、たとえ分裂前の記憶を持たずとも、“彼”がそもそも他者からの愛に酷く飢えていたからなのでしょう。
耐えがたい孤独を埋めようとして王天君は太公望との融合を望み、しかし元は同一の存在であるが故に、それが叶ったところで結局“彼”は独りでしかない。
あー…、なんであんなに人を愛してる師叔が、あんな孤独な道しか選べないのでしょうか。
本当に、あの人が幸せになる為にはどうすれば良いのか、未だに正しい方法がよく解らない私です。
楊が父二人を殺したあの人を許せば、それで師叔は救われるのか。楊は心からあの人を許すことが出来るのか。強い感情を失うということは、忘却の一種ではないのか。
そもそも楊一人がどうこうして、それであの人の超越者としての孤独が、おそらく女と同種の永く深い孤独が本当に癒せるというのか。唯一人に愛されるということが、果たしてそれほどまでに大きな意味を持つものなのか。
わかんないことだらけです。
絵柄のデザインが似てるというだけで、ついキャラまで比べるような発想をしてしまった自分自身に腹が立つのです。
悪魔よ去れ!みたいな……。
何年経っても信者は信者でしかないようで、ちょっとつつかれるとすぐに爆発します(-_-;)今回のは完全に自爆ですが!
師叔の悪口を述べてみよと言われても、全く思いつかない自分に少し吃驚です……が、でも本当に短所ってないですよね?('∀')
師叔がグータラだったり卑怯だったりするのはあの人の欠点ではなく、そうあろうとして半ば演じてるところがあるので。
太公望師叔はキャラ造形としては銀英伝のヤン・ウェンリーの亜種ですが、しかしヤンの私生活がだらしないのは地ですし、飲酒はストレス解消の為のあまり良くないお酒ですからねぇ。ヤンの人間臭さは魅力であると同時に弱味でもありますが、師叔の言動はそれとは違う。
と言っても、師叔がわざと自分を侮らせる為に気持ち悪いペンギンの着ぐるみを身に纏ったり倉庫のモモを盗んだり何かと人質を取ったりギャンブルで大負けしたりイワシ占いしたりしてるのだとしても、師叔の親しみやすさを否定する材料にはなりません。
あの人は常に皆と同じ位置に立とうとしていて、時にやや目下に見られようとすらする。皆は韜晦に韜晦を重ねる師叔の真意を完全には理解出来なくとも、師叔が自分達を愛していることは理解していて、そんな師叔を彼らも愛する。
フジリュー太公望は徹底的に利他の人ですが、しかしその原動力…動機になっているのは、滅ぼされた一族に対する深い愛という、ごく個人的な感情です。そこがとても好き。
呂望→太公望という過程を見れば師叔が人を愛する理由はよく解りますが、王奕→王天君という過程からは、そもそも伏羲という存在が誰かに愛されたいと願い続けていたのだ、ということも薄ら読み取れます。家族に愛された経験が呂望少年に強烈な印象を植え付けたのも、たとえ分裂前の記憶を持たずとも、“彼”がそもそも他者からの愛に酷く飢えていたからなのでしょう。
耐えがたい孤独を埋めようとして王天君は太公望との融合を望み、しかし元は同一の存在であるが故に、それが叶ったところで結局“彼”は独りでしかない。
あー…、なんであんなに人を愛してる師叔が、あんな孤独な道しか選べないのでしょうか。
本当に、あの人が幸せになる為にはどうすれば良いのか、未だに正しい方法がよく解らない私です。
楊が父二人を殺したあの人を許せば、それで師叔は救われるのか。楊は心からあの人を許すことが出来るのか。強い感情を失うということは、忘却の一種ではないのか。
そもそも楊一人がどうこうして、それであの人の超越者としての孤独が、おそらく女と同種の永く深い孤独が本当に癒せるというのか。唯一人に愛されるということが、果たしてそれほどまでに大きな意味を持つものなのか。
わかんないことだらけです。
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