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2012.04.11
久しぶりにちくま学芸文庫の正史蜀書手に取って、孫盛はホント姜維のこと嫌いだなぁとニヤニヤしつつふと気になったこと。

っていうか余談ですが、裴松之って結構好き嫌いの感情優先で論評してるイメージだったんですが、姜維周りに対しては結構理性的ですね。蜀贔屓の心情故かもしれないですが。
そして孔明没後の蜀行政トップは録尚書事を兼任させて政策立案・行政権を持たせつつ大将軍→大司馬ルートで兵権押さえてるかんじみたいですけど、蔣琬の発病および荊州からの北伐計画中止が確定したと同時に費イが大将軍になってるということは、実質的にこの時点からツートップ体制になってるんですなぁ。そして孔明の副官だった蔣琬、劉禅側近かつ孔明とも親しい費イと違って、純軍人から政権トップになっちゃった姜維は異色すぎるというか、そりゃ朝廷掌握出来なくて当然です。
ちゃんとした史官も起居注の担当官も置いてないって時点で、陳寿やら後世の人間の感傷はともかく蜀漢がマトモな国家の体裁を成してなかったことは明らかだと思う訳ですが(孔明のうっかりとかでは済まされない致命的欠陥)、政権トップが大将軍とかの軍事職って、ほんと政府の体制として非常時すぎる……よくあんな政権が何十年も保ちましたよねぇ。乱世こわい。
陳祗が死んだ後の尚書令って誰なんでしょう……どっかのサイト見た方がいいのか自分で正史パラパラした方が早いのか俄に判断つきませんが(^_^;)


で、本題。
鍾会の乱についての経緯は鍾会伝が一番詳細ですけど、
・魏・蜀ともに高官は官舎に幽閉されていた
・鍾会と一部の側近が成都を掌握した形になっていた
・魏の兵士は鍾会に従わず、上司たる魏高官を救出しようと蜂起
・人質の魏高官を皆殺しにするべきと進言されたが鍾会は迷っていた
・戦闘で両軍数百人の将兵が死亡
・鍾会の甥もクーデターに加担、鍾会と共に死亡
 
という記述にプラスして、蜀書に散見される記述を見ると
・鍾会は孔明や蔣琬に対する尊敬の念をパフォーマンス的に示している
・クーデターにあたり鍾会は益州牧と自称
・鍾会は当初略奪を禁じていたが、乱のどさくさで(多分魏兵による)略奪が起きている

・どう見ても姜維が鍾会クーデター政権のナンバー2
蔣斌・蔣顕(太子僕)兄弟も鍾会の側近ヅラした結果クーデター騒ぎで魏兵に殺されている(為亂兵所殺)
・劉禅の長男、太子劉璿もこの時に殺されている(璿為亂兵所害←蔣兄弟と同じ表現)
・ついでに張翼も死んでいる(彼のスタンスはよくわからない)※追記にて修正
・姜維の真の狙いは、鍾会に魏高官を皆殺しにさせた後、鍾会を殺して蜀を復興させることだった…という噂がまことしやかに囁かれ続けている
・姜維は劉禅に数日だけ堪え忍んで下さいという趣旨の密書を送っていたらしい

・劉禅は264年1月中に洛陽に移送される予定だったが、鄧艾の逮捕、鍾会のクーデター騒ぎの間は延び延びになっている
・劉禅は混乱の中、郤正と張通だけを供に洛陽へ急遽出発した(多分クーデター終熄直後)
・鍾会が鄧艾を弾劾する時に口実とした独断専行とは、降伏受け入れ後に勝手に劉禅を剽騎将軍に任命して、元の宮殿に住まわせ続けたことを指す

……てなかんじ。
一連の記述から推測出来るのは、劉璿も鍾会クーデターの一員ないし何らかの役割を果たしていた可能性です。蜀高官は幽閉されてた筈ですし、他の殺されたと明記されてる面々って積極的に鍾会の乱に加担してた人達ですし(張翼はちょっと不明ですが)。
鍾会に人望がなかったと言えばそれまでですけど、一部の蜀臣が鍾会を担ぎ上げて、魏メンツの方からは全く承認されてない…というクーデター政権。
実際鍾会本人は自分が蜀を掌握していずれ天下の主に…とマジで考えてたんでしょうけど、乱に大義名分を与える為の名目として
・実は劉禅は既に退位していたから、皇帝として鄧艾に送った降伏文書は無効だよ!
・だから蜀は正式には降伏してないしまだ滅んでないよ!
・これからは新帝劉璿を、漢の忠臣にして英雄鍾会が支えるよ!!
みたいなことを言っていた可能性があるなー…と、思いました……(-_-;)
そして姜維ら蜀臣がかなり無計画に突発的クーデターやらかしたのって、劉禅が護送される前に形勢ひっくり返したい…という焦りがあったんだろうな、と。名目上は劉璿にトップをすげ替えてたとしても、彼らにとっての主君は劉禅でしかないし、劉禅(及び劉一族)と引き離されたら蜀の復興の可能性も永遠に潰える。鄧艾の厚遇が心証悪くして、護送先の洛陽で処刑されるという可能性も考えたでしょうし。

陳寿がその辺を有耶無耶にしてるのって、基本的には魏や晋の鍾会の乱に対する公式見解に従ったということでしょうけど、劉禅の名誉や自分達元蜀臣の地位を守る為にも、そういう記述(鍾会が一人で勝手にやったこと)にせざるを得なかったのではないでしょうか!(`・ω・´)
蜀降伏を自国の快挙としたい魏晋にとっても、あの降伏文書は嘘でしたって言い難いですしね。実際にも所定の手続き踏まえてて嘘文書じゃないし、じゃあそんな妄言吐いた人間がいたことの方を抹消。


個人的には結構ありえそうなシチュだと思うのですが如何でしょうか(^_^;)
裴注に収録されてる以外の同時代資料がほぼ散逸して読めない今となっては、事実関係を検証することは完璧不可能ですが、ひとつのオリジナル解釈としてこういうこと言ってみるのもアリですよね。
っていうか三国志ファンならみんな上で箇条書きした事実くらい普通に知ってるし、絶対誰かが似たようなこと言ってそうな気がするんですが……。


※追記

おお、陳祗の後任は董蕨→樊建ですか。
やっぱりネットで調べた方が早かったwww
でも、そもそも董蕨・樊建のバックボーンというか、名前だけ聞いてもキャラがピンと来ないので、索引見つつ正史にアクセスする必要はありそうですが……(-_-;)
三国後期はあんまり詳しくないんですよねぇ。辛うじて魏後期はなんとか漠然と知ってますけど、晋書キャラになるとわけわかめに近い。


※5/9追記

董蕨・樊建は諸葛瞻と一緒に姜維失脚させようとしたアレですか、なるほど(^_^;)
普通に諸葛亮伝の末尾(というか瞻の付録)にまとめて載っていた……。
そして上で張翼のスタンスがよく解らないとか言ってますが、この人は意見対立しつつもずっと姜維の副官やってた人で、剣閣防衛の時も副官だったんだから、降伏後もそのまま引き続き姜維の幕下として(おそらく嫌々)鍾会クーデターに参画してしまったのでしょうなあ。
吸収した鄧艾・諸葛緒の兵を含むといっても、魏から連れてきた鍾会指揮下の将兵10万は所詮サラリーマン的な上司部下の関係で、姜維とその指揮する蜀の将兵が実質的に鍾会の私兵の働きをしていたんでしょうね。
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